井土熊野先輩を偲んで

吉川昭一[昭和29年卒]

 

 津高艇友会結成時より、会のため多大なご尽力いただいた井土熊野先輩が、さる8月13日永眠されました。享年81歳。ここに衷心より哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。

 先輩は、終戦後間もない昭和22年の卒業ですが、その前年の21年には、琵琶湖瀬田川で開かれた第1回国民体育大会に、コックスとして出場されています。この間のことについては、百年記念誌に詳しく記されていますが、忘れてはならないのは、在学中に新艇建造運動の中心として奔走され、全校生徒に呼びかけ、学校当局をも動かし、「阿漕」「布引」という新しい2艇のフィックスを、後輩に残して卒業されたことです。

 私が先輩に初めてお会いしたのは、確か昭和49年の総会後の懇親会だったと記憶しています。当時、事務局を担当していたので、会報のための原稿を依頼したわけです。

 しばらくして、パリ発の航空便で原稿が送られてきました。『「ふねこぎかけくら」の時代』というタイトルでした。先輩は、パリの血液研究所へ留学されていたのです。その内容は、ボート競技が日本にもたらされた時代の様子を、正確な史実といくつかの挿話を交えて、独特のユーモアのある筆致で書かれた大変興味あるものでした。その原稿は、昭和525月に発行された艇友会報第3号に掲載されました。

 その後、帰国されてからは、殆どの艇友会の行事に参加していただきました。又、現在では恒例となっている新年の「漕ぎ始め」が始まったのは、確か先輩の提案によるもので、この頃からではないかと思います。

 昭和54年には滞仏の記念として、現役に対してシングル・スカルを寄贈していただきました。進水式が艇庫前の岩田川でとり行なわれ、「エコール・ド・メディシヌ号」と命名され、朝熊清氏[昭和38年卒]が試漕を行ないました。

 昭和61年、津高漕艇百周年を迎えるにあたり、その2年ほど前から、いくつかの記念行事が計画されました。その一つが、記念誌を刊行するというものでした。

 井土先輩は編集委員として、当時津高で教鞭をとり、ボート部の顧問をしていただいていた、鈴木茂先生と二人で中心的な役割を果たしていただいたのです。振り返ってみると、先輩は当時50歳半ば、医学の仕事に携わっておられ大変忙しい中を、記念誌の編集に寸暇を惜しんで当たられ、その完成に心血を注いでいただいたのだと思います。

 その結果、B4421ページにも及ぶ、津高漕艇百周年記念誌「見よ蒼溟につづきたる」が完成し、記念式典の会場で配布されました。その内容は、現役時代の思い出の記を連ねるだけではなく、津高ボート部の歴史を時代の移り変わりに即して正確に記述した、まことに立派なものでありました。発刊後、日本漕艇界の各方面から、数多くの賞賛の声が寄せられたほどです。

又、先輩は平成2年から、主として愛知池を中心に開催された、マスターズレガッタに同輩後輩を誘って津高艇友会として毎年参加されました。平成11年の記念大会では、クルーでただ1人、10年連続出場の表彰を受けられました。レース後の懇親会はいつも、東郷町の「筑紫飯店」という中華料理屋で行なわれ、津中時代の漕友牛込邦三さんとの語らいを、大変楽しんでおられました。

 一方、若いころから登山を大変愛好されていた先輩は艇友山岳会という山登りの同好会もつくって、ひと月かふた月に一度、おもに鈴鹿の山々をアタックされていました。私も、平成5年に初めて誘ってもらいました。それ以来、平成14年まで約10年にわたって、まったくの初心者であった私に山登りの「イロハ」から指導していただきました。

 先輩は、大変に優しいリーダーで、初めての人が参加している時の登山は、5分間登っては3分間休憩するという、まったく新入りに配慮したものでした。

 列の最後尾から、好きな童謡のメロディを口ずさみながら、落伍者が出ないかを注意して、いつもついてきてもらったものです。

 しかし、それから数年経過した、平成10年ころからでしょうか、下山の途中で先輩が、なんでもない場所で転倒するのを二三度目にしました。山の練達者であるのに何故だろうと、同行者たちはひそかに顔を見合わせたものです。後になって思えば、この時すでに病の兆しが表れていたのかもしれません。

 残念ながら、長い間先輩に指導していただいた山行きも、身体の変調がはっきり表れてきた結果、平成14年に奥様同伴で、「野登山にホトトギスの鳴き声を聞きに行く」という催しで、終止符を打ちました。

 その後、幾つか病院を移られ、数年前より河芸の「いこいの森」で、闘病生活を続けられていました。一昨年、中川運河での旭丘対抗戦のあと数日して、足立潤氏[昭和31年卒]と一緒にお見舞いに伺いました。先輩の耳元で、その時の成績を報告しますと、私の手をぎゅっと握り返しながら、うなずいておられたすがたが、今でもはっきりと目に浮かびます。長い療養生活のすえ、今年のかつてない猛暑のなか、ついに帰らぬ人となられたのです。

 先輩の、すぐれた人格と、その思いやりのある優しい気持ちは、私達の心から決して消えることはありません。又、偉業である「百周年記念誌」は、津高ボート部の伝統の一つのあかしとして、これからも長く受け継がれていくものと信じて疑いません。

 井土熊野先輩 長い間本当に有り難うございました。どうか安らかにお休みください。

平成2211月8日